市内には南北に走る道と、東西に走る道がいくつかあります。街を歩いてみると、道に親しみやすい名前がほとんどついていません。くにびき道路や国道9号線、城山東通り、城山西通り、城北通りなどは標識がありますがそのほかの通りには、ほとんど標識がついていません。それぞれの通りにふさわしい名前の標識を作って、街を歩くときの目安にできたら楽しいと思います。標識といえば松江市内にも立派な多目的公衆トイレが用意されていますが、どこも案内がなくひっそりと置かれている感じです。市民も存在を知らないトイレがあります。
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松江市内のあちこちに、よく整備された散歩に適した道があります。内中原のお花畑は県立図書館の西側にある南北の通りです。藩政時代には薬草を栽培する畑がありました。また、ここには終戦直後まで赤レンガ塀の松江刑務所があり、悪いことをしたら入れられるという恐怖心を子供心にいだいたものでした。この通りは松江城の内堀の西側にあり、観光客が多く通る道です。残念ながら道路の案内標識がなく、大手前に抜ける道が分からず地元の人はよく道案内をするそうです。 |
ウォール街といえば有名なニューヨークの金融街だが、それほどではないにしても、松江にもウォール街もどきの金融街があった。現在のカラコロ工房は、旧日本銀行松江支店の建物であったが、これは2代目だった 初代は大正7年に建てられた木造建築であった。現在のかげやま呉服店も明治36年に建てられた国立第三銀行であった。合銀北支店は旧八束貯蓄銀行本店であり、今はないが旧雲陽実業本店、旧島根貯蓄銀行本店などが軒を並べていた。これは、大正初期のたたら景気とも言われるたたら製鉄が活況を呈した時期故でもあった。 |
上乃木にあった競馬場は知られているが、競輪場もあったことは意外に知られていない。昭和25年5月末次の埋立地に1周300m、9車立ての競輪場がオープンした。この頃、地方自治体は公営ギャンブルを各地で起こし、娯楽と金儲けの一石二鳥を狙ったところが多かった。年10回開催されたが、やがて赤字が膨らみ昭和28年9月廃止となり、跡に末次公園が造成された。 |
今では東本町と、どこにでもあるような名前の町だが、一帯は船大工や鍛冶屋、材木屋と言った職人の住む町であった。屋根が低く、玄関も道路から下がっているような町屋が並び、大橋川にもつながっていた。昭和6年(1931年)5月16日に、旅館の風呂場から出火し、元材木町、新材木町、鍛冶町、紙屋町、末次魚町、向島町に及んだ火災の焼失世帯は671世帯にもなり、壊滅状態に近かった。これを機に、地域は区画整理され、東本町と総称されるようになった。 |
昭和11年(1936年)、現在の松江大橋工事中に深田技師が殉職した。藩政時代の人柱源助が人柱となった同じ場所だったという。
出来すぎてはいるが。その前の第16代大橋は船の衝突により落橋した。当時新大橋が工事中で松江の交通は大いに麻痺したそうで、大橋の建設が急がされたものであった。 |
出雲は相撲発祥の地でもあるが、江戸中期においては、雲州藩出身力士が江戸の角界を席巻していた。
不味公の時代はその黄金時代だったともいわれる。時代小説「御宿かわせみ」にも雲州候が、その力士を使って、悪者を脅かす話が出ているが、その力士を釈迦ヶ嶽雲右衛門と言う。
身の丈は227cm、草履の長さは50cm近くもあった。これは今でも本物の草履と手形が残っている。
他にも雷電為衛門、鳴滝文太夫をはじめとして、西方の上位を独占していた。
のちに陣幕久五郎も出てきて、めでたくお酒の名前にもなっている。
なお雷電の碑が月照寺にある。 |
松江城北側の内堀沿いの道は塩見縄手(ナワテ)と呼ばれ、秋には櫨(ハゼ)などが美しく紅葉し、初冬から春先にかけて鴨が越冬しています。
堀川遊覧船の後をついて泳ぐ鴨の平和な姿を見ると、心が和みます。このあたりはへるん旧居などがあり、松江の観光スポットになっています。楽しく歩ける上に眺めて楽しめる道が、来てよかった、幸せだとの満足感を人々に与えると思いますが、残念ながら塩見縄手の歩道は凸凹があり、景色を見て、楽しく語らいながら歩ける道ではありません。
車イスの人たちはこの道を敬遠しています。 |
松江を神々の首都と書き、外国人で唯一出雲大社に昇殿を許された民俗学者小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)。
ジャーナリストだった彼は旅行会社の企画で日本旅行記を書くことになり、1830年4月に日本に来たが、その後、旅行会社といざこざがあり、仲間の紹介で同年8月31日に、当時の松江第1中学校に英語教師として赴任した。
富田屋旅館(現:大橋館)は、八雲が松江で最初に住んだ場所で、前にある大橋から見る景色は八雲の名著の1つ「知られざる日本の面影」で語られている、美しい景色といえば「小泉八雲旧居」の三方の庭も小泉八雲を魅了したほか、これも「知られざる」の「日本の庭園」の舞台になっている。
また、松江藩主であった松平家の菩提寺である月照寺については、「出雲再訪」の中で絶賛、月照寺の大亀の石像は夜な夜な人を食うという伝承は「知られざる」で書かれている。
これらも含め、小泉八雲ゆかりの場所はまだ多くある。書として残らず、半ば言い伝えに近い話も多くあるのだが、それほど小泉八雲はこの地を愛し、この地の民は八雲を愛した。 |
松江城は老朽化のために、昭和26年ごろから解体修理にかかりました。その前の松江城は、いかにも古城という風情で壁の色も今のものとは異なっていました。石垣も、子供たちがよくよじ登っていました。今のように整備されていなく登りやすいところがありました。大人たちも子供の遊びに無頓着でした。最近の城山の中を見ると、建物も新しいものがあり、石垣も築き直したものは、いかにも直しましたという感じです。古い城のたたずまいを知っている者にとっては、少し寂しい思いです。 |
松江で最初に電灯が点いた日は、日清戦争が始まった明治27年7月24日の、白潟天満宮夏祭りにおいてであった。竹ざおの先につけられたアーク灯は3晩の間点灯して、当時の市民に強烈な印象を与えた。翌明治28年10月1日、全国で26番目の営業所として、松江電灯会社が設立された。発電所と事務所は、城山の椿谷に設けられ、石炭を燃料とした火力発電であった。激しい煤煙と音を出したといわれる。 |
松江藩には鉄方、木の実方と並んで、人参方といわれるものがあった。「方」とは役所のことであり、木の実とは主にハゼの実を言う。いずれも藩の専売として利益をあげていたものだが、寺町誓願寺南にはその人参方の門が残っている。車の通行の邪魔になるため、門ははずされているが、何とか保存してある。鉄方、木の実方はすでに跡形もない。松江藩の特異な人参方は、門だけでもぜひ残したいものだ。ちなみに鉄方があったのは、今のカラコロ工房あたりで、木の実方は日赤横の米子町の入り口付近にあった。 |
松江人は新しい物好きであった。70年前の昭和8年7月、宍道湖に着水した複葉単発のレシプロ水上飛行機が、水面をさざめかせて城崎に旅立った。4人の乗客を乗せての定期便だったが、乗客の名前は新聞にその都度掲載された。城崎第1号は週1回就航し、所要時間1時間20分、料金は15円だった。その後、航空路は松江・大阪間に延長され、航空熱はますます高まりを見せ、さらには韓国、中国などとの国際航空路開拓の可能性も浮上していった。しかし、昭和12年、日中戦争の始まりにより廃止を余儀なくされ、国際空港の構想も忘れ去られてしまった。 |
八百屋畠は寺町のバス通りから、一つ北の通りにあります。道路脇に来待石の碑が一つあるだけです。縁起が記述してあればよいのですが地名の由来は分かりません。この通りに面して久成寺があります。ここには我が国のスポーツの振興に功績のあった、岸先生の墓があります。善導寺横丁は久成寺の横を北に約100m入ったところの善導寺の横を西に向かう横丁です。きれいに舗装された道を歩いていくとスティックビルの東側に出ます。このような道が増えれば街を歩くことが一層楽しくなります。 |
昭和21年、連合軍総司令部は「公娼廃止」を指令した。しかし、政府はその後も社会悪としながらも、「赤線」、「青線」と呼ばれる区域で事実上集娼業を公認した、松江のこうした施設はもともと和田見(ワダミ)町にあったが、明治24年ごろ伊勢宮町に移った。新地と呼ばれていた新大橋に続く道は元は川であり、その片側の狭い道から門をくぐり新地に入っていった娼婦が祈るお伊勢さんがあったことから、伊勢宮と呼ばれたという。 |
明治維新以来逼迫した藩財政を立て直すため、松江藩は横浜に藩直営の商社を設立し、出雲の産物を売って儲けようとした。明治3年のことである。当初、朝鮮人参や櫨を扱い、米や銀の相場に手を出し、医療器具やラシャなどの輸入まで行ったが収支ははかばかしくなかった。失地回復をもくろんで、横浜山手のビール醸造会社を買収し、外国人技師を雇って居留外国人にビールの販売を始めたが明治5年の廃藩置県によって、はしごをはずされた格好になり廃業、後を島根県が引き継いで、整理に当たった。 |